メールレター購読者さま 平野啓一郎メールレタースタッフのコニシ(@konishi36)です。 今日もメールレターを読んで頂き、どうもありがとうございます。 先週金曜日に『ある男』が発売してから、ちょうど1週間が経ちました。 発売直後から、本当にたくさんの方からご感想をいただき、とても嬉しく読ませて頂いています。 Twitterでの「#ある男」つき感想ご投稿もありがとうございます。 発売前日などは、『ある男』をちゃんとみなさんに受け入れてもらえるかな、 という緊張があったのですが、頂いたご感想をみて、その気持ちが一瞬で吹き飛んで、 もっともっと、皆様の感想を読みたいと思うようになりました 笑。 なので、SNSやこちらのメールレターの下部にある感想フォーム等で、 ぜひ、メールレター購読者さまのご感想を教えてくださると、とても嬉しいです。 今週末はあいにくの悪天候、つまりは読書日和なので、 『ある男』の世界にどっぷり浸っていただく過ごし方はいかがでしょうか? 『ある男』Amazonページ https://amzn.to/2vrjp2r 今週は、平野さんと共に、いつも応援してくださる東京の書店を回り、 ご挨拶&サイン本を置かせて頂いたのですが、その際に書店員のみなさまから 「ある男は、本当に色々な要素を持った物語だから、一面だけを押し出すのでなく丁寧に売っていきたい」という言葉を頂きました。 その言葉の通り「愛した人が全くの別人だとわかった時、その愛はどうなるか」「別の人生を生きる」「三勝四敗主義」など、 様々な要素をもっているからこそ、そのひとつひとつを丁寧に広めていきたいなあと、改めて僕も思いました。 読書会、LINEスタンプなど他コンテンツへの展開など、 これからどんどん企画していきますので、ぜひお楽しみに!リクエストもお待ちしております。 それでは、本日も最後までお楽しみください。 ■『ある男』連載 21 谷口大祐に会い、原誠との戸籍交換について話を聴いた後、城戸は一先ず、中断していた、里枝に渡すための報告書を書き上げた。原誠については、まだ知りたいこともあったが、一年三ヶ月に亘ったこの調査を、ともかくも一旦、終わらせる必要を感じていた。  城戸は、香織に言われた通りに、職場近くのクリニックで、臨床心理士のカウンセリングを受けたが、質問の仕方に職業的な関心が向いてしまい、根掘り葉掘り尋ねて会話は盛り上がった。またいつでも、と言われたものの、結局、足を運んだのはその一回きりだった。  香織は、それを聞いて安堵したが、いざ自分となると腰が重かった。それでも、城戸が約束を無理強いしなかったのは、あの日の話し合い以来、彼女の態度に変化があり、颯太が叱られて泣く機会も目に見えて減っていたからだった。  必ずしも、自然に、というわけではなく、城戸は寧ろ、妻の方にも家庭を立て直そうとする意思と努力を感じた。震災だけでなく、排外主義の拡がりに、彼女の立場で感じている精神的負担を改めて共有したあとだけに、彼も出来るだけ、協調的でありたかった。気遣いの至らなかったことにはすまないという気持ちがあり、また、感謝もしていた。  城戸のその思いは、今に至るまで揺らぐことはない。  従って、里枝との再会の三日前に起きた次のような出来事は、とある平凡な週末の取るにも足らない記憶として、彼の中では既になかったことになっているのである。  その心境が、理解できないという人もいれば、わかる気がするという人も恐らくはいるであろうが。  城戸の家族は、朝から颯太がずっと行きたがっていたスカイツリーを訪れていた。  東横線と半蔵門線を乗り継ぎ、十一時頃に到着したが、二年前の開業時の混雑も、そろそろ解消されているのではという呑気なアテは外れ、取り分け、春休みの週末だけに、整理券の配布だけでも二時間待ちと告げられた。  窓の外には、快晴のめざましいほどに青い空が広がっていた。  いい休日だなと、城戸はそれを見つめながら思った。  昔、何かの小説で読んだ「ああかかる日のかかるひととき」という嘆声が脳裏を過ぎった。まさにそんな気分だったが、誰の本だったかは、どうしても思い出せなかった。  香織は昨夜は会社の飲み会で、城戸も寝てしまったあとの深夜に戻ってきたが、その割に二日酔いもなく、起きてからずっと機嫌が良かった。 「どうする? ならぶ?」  母親に笑顔で尋ねられた颯太は、親指の爪を噛んでその目を見ると、しばらく迷う風にクネクネしていたあとで、「やっぱり、すいぞっかんにいく。」と言った。  城戸は本当にそれでいいのかと確認したが、 「いいから、いこー。」  と腕を引っ張られた。大人の顔色をよく見るようになったが、それが年齢相応なのか、過敏なのかは城戸にはわからなかった。スカイツリーは真下から見上げただけで満足することにした。  城戸は香織に、遠くから見てもありがたみのない鉄塔だが、間近で見てもふしぎなほど感動しないと、思った通りのことを言ったが、香織も、「ほんとね。」と同意して笑った。颯太が途中で、ガチャガチャを一回どうしてもしたいというので、城戸が小銭を出してやった。鎧兜のミニチュアだった。  水族館は、同じ建物に入っていて、こちらも混んではいたが、行列は短かった。三人で、八景島のシーパラダイスには行ったことがあるが、ここは、城戸も香織も初めてだった。  中は、今風の薄暗いデート向けの照明で、颯太は小躍りして人混みを歩いたが、クラゲや小魚などには見向きもせず、少し高い水槽のラッコなどを見せてやろうと抱きかかえても、「もういい。」と素っ気なかった。サメやエイが見られる水槽は、最近、シネコンでよく見る巨大スクリーンのように壮観で、ここが見所だと人集りが出来ていたが、颯太は今度は、「こわい。」と言って足早に通り過ぎた。城戸は、香織と顔を見合わせて苦笑した。  ペンギンのゾーンは、大きなプールを上から見下ろす作りになっていて、颯太はその構造に興奮したようだった。青い水槽に人工の岩場が設けられていて、下の階に降りると、目の高さで水中を泳ぐペンギンを見ることが出来る。  群れをなして泳ぐその影が床に落ちて、それらだけを見ていると、飛翔しているようだった。水槽の外から見上げる水面は、絶え間なく攪拌されていて、天井から注ぐ光を揉みしだいている。皆が同じ方向を向いて泳いでいるのに、ほんの数羽が深く、斜めに反対方向へと突き進んでゆくと、やがて群れ全体が方向を転じる様を、城戸は面白く眺めた。  そして、気がつけば、颯太と香織の姿はなくなっていた。  二人を見失った城戸は、しばらくペンギンのゾーンをうろうろしていたが、見つけられなかった。携帯で連絡すると、もう出口付近のグッズ売り場にいるという。なんだ、と行ってみると、颯太は「おとうさん、まいご!」と、姿を見るなりおかしくて堪らないという風に飛び跳ねて笑った。城戸が顔を顰めてみせると、いよいよ止まらなくなった。記念に何か買ってやるつもりだったが、散々物色した挙句、欲しいものがなかったらしく、昼食後に他の店で探してみることになった。  レストランフロアは、どの店も気が滅入るほど長い列が出来ていたが、七階の世界のビールを集めた店だけはすぐに入れそうだったので、颯太の食べられるものがあるか確認して、そこにすることにした。  案内されたテーブルは、意外に窓からも近く、彼方に皇居が見える青空の下の広大な東京の街を眺めながら、ここからの景色で十分だったと城戸は思った。  座ると、三人ともほっと一息吐いた。一時間半ほど歩いただけだったが、電車の移動もあり、心地良くくたびれていた。  店内は家族連れやデートの客で賑わっていて、酒のせいで話し声も大きかった。これなら颯太が椅子にじっとしていられなくなっても、あまり周りに気を遣わずに済みそうだった。  颯太には、ハンバーグがついたお子様ランチとオレンジ・ジュースを、城戸と香織はサラダやスペアリブを注文し、それぞれにシメイの白と、名前の読み方もわからない、珍しいドイツのピルスナーを選んだ。  飲み物はすぐに来て、一先ず三人で乾杯した。城戸は、一気に三分の一ほどを飲んで、一番風呂にでも入っているかのような、寛いだ、長い息を漏らした。シメイの奥行きのある果実風の苦みが、心地良く舌に広がった。 「うまいなァ、久しぶりに飲むと。」  更に三分の一ほどを飲み干して、おくびを堪えた。  颯太が父親を真似て、ジュースを飲んでから、 「はあー、うまいなあ、ひさしぶりにのむと。」  と言って、おかしそうに笑った。城戸も香織も笑った。 「飲んでみる? こっちもけっこう美味しい。」  そう言って、香織はグラスを差し出した。城戸は軽く口をつけると、「ほんとだ。さらっと飲めるね。」と後味を確かめながら頷いた。  食事は、サラダだけが来て、なかなかあとが続かず、ほど経てスペアリブが来たが、肝心のお子様ランチが出てこなかった。颯太にスペアリブを食べさせようとしたが、「からい。」と言って、一口で、突き刺した肉をフォークごと皿に戻してしまった。 「ねえ、ママ、スマホのゲームであそびたい。」  香織は、仕方ないという風に、颯太の好きなパズルゲームの画面にして手渡した。  肉を食べながら、二杯目のシメイをもうほとんど飲んでしまった城戸は、少し酔って、ますます気分が良くなった。 「ごめん、ちょっといい?」  香織は、席を立ちながら、携帯をどうしようか迷っている風だったが、そのまま颯太に預けていった。  城戸は、「おそいね、おこさまランチ。」と颯太に声を掛けながら、二年前の冬、渋谷で谷口恭一に初めて会った日の夜のことを思い出した。あの時、寝室で颯太を寝かしつけながら感じた強烈な幸福感のことを考え、今も自分は幸福なのだと胸の裡で呟いた。 『――どこかに、俺ならもっとうまく生きることの出来る、今にも手放されそうになっている人生があるだろうか?……もし今、この俺の人生を誰かに譲り渡したとするなら、その男は、俺よりもうまくこの続きを生きていくだろうか? 原誠が、恐らくは谷口大祐本人よりも美しい未来を生きたように。……』  城戸は、下を向いて、小さな人差し指で器用にタッチパネルを操作する颯太を見つめた。自分の子供の頃に顔も性格もよく似ていると思った。彼はそのことにやはり喜びを感じていたが、颯太にとっては、将来、苦悩の原因とならぬとも限らなかった。自分は、真っ当に生きなければならないと城戸は思った。そして、この子を譲り渡すという決断を想像して、胸が張り裂けそうになった。 『俺は、それをきっと身悶えして後悔するだろう。谷口大祐のように。――しかし、原誠ではなく、別の誰かだったなら、谷口大祐の続きの人生も、あれほどの幸福には恵まれなかっただろう。……』  彼はグラスの底に残った、もう気の抜けてしまったビールを飲んで、唇を噛み締めた。そして、今のこの人生への愛着を無性に強くした。彼は、自分が原誠として生まれていたとして、この人生を城戸章良という男から譲り受けていたとしたなら、どれほど感動しただろうかと想像した。そんな風に、一瞬毎に赤の他人として、この人生を誰かから譲り受けたかのように新しく生きていけるとしたら。…… 「ねえ、おとうさん、まあーだー?」 「おそいなあ。もういっぺん、いってやろう。」  城戸はせわしなく空いたグラスを運んでゆくウェイトレスを呼び止めて、もう一度、急ぐように言った。  そして、ふと、そう言えば、あの時に颯太から尋ねられた、ナルキッソスはどうして水仙の花になってしまったのか、という質問に、結局、まだ答えていなかったことに気がついた。颯太自身も忘れているが、折角だから、今度調べてやろうと携帯にメモをした。  隣のテーブルには、二歳くらいの女の子と生後五ヶ月ほどの男の子を連れた夫婦が座っていて、泣き出した下の子供のために、母親が急いで粉ミルクを作っていた。 「……すみません。」  ぼんやりと見ていた城戸に、父親が申し訳なさそうに頭を下げた。 「いえいえ、全然。」 「泣き出すとなかなか止まらなくて。」 「いやあ、うちの子が小さい時に比べれば、全然おとなしい方ですよ。」  城戸は愉快に笑って、相変わらず、ゲームに夢中になっている颯太に目を遣った。まだ五歳だが、大きくなったなと感じた。里枝の二人目の子供は、この年齢をさえ経験することがなかったのだった。彼女はその死の悲しみを経験している。自分には、とても耐えられないだろうと心底思った。  香織はなかなか戻って来なかった。しばらくすると、颯太が、 「あっ、おとうさん、へんながめんになっちゃった。」  と、スマホを差し出した。城戸が見ると、他のゲームの広告ページになっていた。 「ああ、どっか、さわっちゃったんだな。」  そう言いながら、画面を操作してやっていると、丁度、携帯にラインの着信があった。上部にバナーが表示されて、見る気もなかったのに目に触れてしまった。 「昨日の夜」という言葉と、子供向けのシールのようなハートの絵文字がちりばめられたそのメッセージを、城戸は反射的に、何か壊れやすいものの上に落ちている埃のように、親指でそっと払い除けた。スワイプして画面から消えたあとも、送り主である香織の上司の名前が頭に残っていた。しかし、それはまだ、脳の中の「短期記憶」と呼ばれる領域に留まっているに過ぎないはずだった。そして、ありがたいことに、それはほどなく、覚える必要のないこととして、跡形もなく消え去ってしまうはずだった。  画面が暗転すると、城戸は、何事もなかったかのように、それをテーブルの上に伏せて置いた。 「おとうさん、ゲーム、もっとやりたい。」 「もうおわり。ほら、ちょうどおこさまランチ、きたから。たべなさい。」 「えー、……じゃあ、たべおわったらいい?」 「おかあさんにききなさい。」  城戸は、温くなったシメイを飲み干すと、ウェイトレスに更にもう一杯を注文した。  やがて、香織が帰ってきた。 「もう、女子トイレが、すごい行列で。――あ、来た、おこさまランチ?」 「うん、いまきたよー。もう、ぼく、まちくたびれたよ。」 「三杯目じゃない、それ? 大丈夫? 帰れる?」 「帰れるよ。ビールだし。」  城戸は笑って、颯太のハンバーグを腕を伸ばして小さく切ってやった。  隣の子供は、ようやくミルクにありついて、夢中で哺乳瓶を吸っていた。  窓の外には、快晴のめざましいほどに青い空が広がっていた。  いい休日だなと、城戸はそれを見つめながら思った。  昔、何かの小説で読んだ「ああかかる日のかかるひととき」という嘆声が脳裏を過ぎった。まさにそんな気分だった。  そして、確かそれは、梶井基次郎じゃなかったかと、ビールに口をつけながら、ようやく思い出せたと、音も立てずに小さく膝を打った。 (続く) ☆☆ 平野啓一郎新作長編小説『ある男』発売中! https://amzn.to/2vrjp2r 『ある男』特設サイトがオープンしました! https://bit.ly/2nINQxO ☆☆ 新作エッセイ集『考える葦』発売中! https://amzn.to/2QuH2Bg ☆☆ 本メールレターについて バックナンバー http://fcew36.asp.cuenote.jp/backnumber/hirano/mailletter/ 平野啓一郎への質問はこちらから! https://goo.gl/forms/SSZHGOmy2QBoFK7z2 『ある男』についてのご意見・ご感想募集中! https://goo.gl/forms/ewNWn9rx2MhkYq9x1 ☆☆ 掲載情報: 『文學界』10月号にて、平野啓一郎特集! https://amzn.to/2wKHJNA ☆☆ 電子本のご案内 http://bit.ly/2qvb8Xk 【タイアップ小説集 〔電子版限定〕】 http://bit.ly/2pOabNs 【文学とワイン -第四夜 平野啓一郎-電子版】 ☆☆ 平野啓一郎公式サイト →https://k-hirano.com/ ☆『マチネの終わりに』特設サイト http://k-hirano.corkagency.com/lp/matinee-no-owari-ni/ 平野啓一郎公式ストア →https://storeshirano.stores.jp/ 『マチネの終わりに CD』やギフトセットなど ☆公式SNS・ブログ Twitter:https://twitter.com/hiranok note: https://note.mu/hiranok LINEブログ:http://lineblog.me/hiranokeiichiro/ ☆ メールレターの退会をご希望の方は、以下メールアドレスに空メールをお送りください。 hiranoresign@fcew36.asp.cuenote.jp