メールレター購読者さま こんにちは。 平野啓一郎メールレタースタッフのコニシです。 今週もメールレターを読んでいただき、 どうもありがとうございます。 メールレター購読者さまの今週は、どうでしたか? 何かいいことがあったらいいな、と勝手ながら思っています。 僕はといえば、先週こちらのメールレターで、 平野さんの新作小説『ある男』読書会の 募集をしたところ、思っていた以上に多くの方から ご応募いただき、驚き、何よりとても嬉しかったです。 「自分の好きな作品を通じて、 同じ気持ちの人と繋がる」ことって、 改めて素敵なことだなあとしみじみ思いました。 運営側(僕)のキャパシティもあり、 泣く泣く募集を締め切らせていただいたのですが、 また近いうちに募集できれば、、と思います。 また、リアルな読書会に限らず、Twitter上でみんなで感想を語り合えたりしたらいいなあと思っているので、 ぜひ「#ある男」をつけて、投稿頂けると嬉しいです。 今週のメールレターは、『ある男』第2章にくわえ、 平野さんからのメッセージも届いています! ぜひ、最後までお楽しみください。 ■平野啓一郎より こんにちは。 日増しに暖かく(暑く?)なっていきますが、いかがお過ごしでしょうか?   僕は、おかげさまで、新作長篇『ある男』を『文學界』(6月号)に掲載することが出来、少しホッとしているところです。 文芸誌は、よほどの文学好きでないと普段は手に取らないので、反応は単行本化のあとかなと思っていたのですが、雑誌発売の直後から、非常に多くの感想をネットで目にしていて、感激しています。 僕としては、是非とも今、皆さんに読んでもらいたいと思って構想した小説なのですが、執筆は苦労しまして、技術的には、今までで一番「難しい」と感じた小説でした。それを感じさせないようにすることもまた、難しかったのですが(笑)。   単行本は、9月末刊行予定で、若干、手を加えことになるはずです。更に良くなると思いますので、どうぞ、乞うご期待! 装幀の相談も進めていて、非常に印象的な、「これは!」的なデザインになりそうです。ポスターにすると、かなり良いのではないかと。勿論、本のかたちでも素敵なはずですので、一家に一冊、是非(笑)。   今年は、もう一冊、この数年書きためたエッセイ集が出る予定です。『モノローグ』、『「生命力」の行方~変わりゆく世界と分人主義』に続く本です。 今年はその他、あと二冊ほどの本の準備があり(刊行は来年以降です)、また、来年の新聞連載も考えなければならず、なかなか気が休まりませんが、ぼちぼちやっていきます。   どうぞ、よろしくお願いしますー。   平野啓一郎 ■『ある男』(平野啓一郎)連載: 2  もう、あのお客さんは来ないんじゃないかと、里枝は思っていた。そして、そのことを考えると、何となく寂しかった。  彼に会えないからというわけでは、まだなかった。ただ、あのいかにも孤独そうな人が、結局これで、この町からいなくなるのだろうかと思うと、不憫だった。壊れそうだからと、いつも大切に扱うようにしていたものを、出し抜けに人に触られて、壊されてしまったあとのような悲しさがあった。  しかし、案に相違して、彼は翌週、例の如く平日の夕方に独りで店を訪れた。町の人たちから怪しまれていることを、恐らくは彼も気にしていたのだった。 「これを、……」  差し出したのは、二冊のスケッチブックだった。始終持ち歩いていたせいで、緑色の表紙は、角が白く潰れてしまっている。  店内に客は他になく、母も出ていて、彼らは二人きりだった。 「持ってきてくださったんですか?」  里枝の頬には笑みが広がった。  最初のページから始まるのは、宮崎市の青島一帯の風景のようだった。「鬼の洗濯板」と呼ばれる細波のような起伏の磯や青島神社の鳥居、それに、宛ら頭上に広がる青空を映したような海原と彼方の海岸線が描かれている。  里枝は、顔を上げて、固い表情のまま立っている、名前も知らない〝常連さん〟を見た。彼は、微笑もうとしたようだったが、頬が震えてうまく笑えなかった。  ページを更に捲ってゆくと、いつか話に出た一ツ瀬川やその近くの公園、近郊のダム、古墳群の花盛りの桜、……と、いかにも余所の人が行きそうな観光地から、やはり余所の人だからこそ珍しかったらしい、何の変哲もない場所まで、様々な景色が写生されていた。スケッチだけのものもあれば、色を塗ってあるものもある。  決して、特別な才能を感じさせる絵ではなかった。しかし、下手というわけでもなく、里枝は、中学生の頃、クラスで一番美術が得意だった男の子の絵を思い出した。  大抵の人間は、中学生の頃までは、学校の図画工作や美術の時間に絵を描き、その後は、ぱたりと描かなくなってしまう。もし人が、大人になって、唐突に画用紙と絵筆を手渡されたなら、結局は彼と同じように、中学生の頃からまるで進歩のないやり方で描くより他はないのかもしれない。  しかし、皆はもう描かず、彼は描いているのだった。画技はなるほど、そのままかもしれない。しかし、精神は? 成長にせよ老いにせよ、年齢は今更、こんな無垢を許しはしないのではあるまいか。  自分と大して歳も変わらなそうな、もう三十代も半ばらしい大人が、こんなに気持ちよく澄んだ絵を、しかも、戯れに一枚描いてみたというのではなく、スケッチブック数冊分も黙々と描き続けている。里枝はそのことに心打たれた。  この人の目には、世界はまだこんなに屈託のない表情で見えているのだろうか。それと静かに向き合えるというのは、どんな人生なのだろう?……  十五分ほどかけてじっくりページを捲ってゆく間、彼女は、誰にも邪魔をされたくなかった。今はどんな客にも来てほしくない。そう祈っていた。  やがて、二冊目の終わり近くに描かれた一枚の絵の上で、彼女の目は止まった。  高校生の頃、毎日、宮崎への登下校で利用していたバスセンターの建物だった。  今でもしょっちゅう前を通っているが、彼の絵を見ていると、なぜか急に涙が込み上げてきて、そういう自分に動揺した。   里枝は、ずっとあとになってからも、この時どうして自分が泣いてしまったのかを考えることがあった。  結局のところ、精神的に酷く不安定だったのだと思うしかなかった。遼と父の死の悲しみは言うまでもなく、帰郷して以来、知らず識らずに募っていた自身の境遇への感傷が、最後のほんの些細な数滴のために、表面張力を破って、溢れ出してしまったかのようだった。  毎朝、このバスセンターの待合室に座って、宮崎市行きのバスを待っていたあの頃、自分が将来、横浜で就職して結婚生活を送り、二人授かった子供のうち、一人を早々に失って、離婚してまたこの町に戻ってくることなど、夢にも思っていなかった。  その瑞々しい水彩画のバスセンターは、もう十四年も経っているというのに、記憶の中の懐かしい建物と何一つ変わらなかった。唯一違うのは、そこにはもう、制服姿の十代の彼女はいないということだった。  そんな考えは、所詮は、あとから繰り返し思い返すうちに、気紛れに脳裏を過ぎったにすぎないのかもしれない。この時はただ、何かが瞬く間に彼女の中で膨らんで、胸をいっぱいにし、他の感情の一切を押し潰してしまったのだった。  里枝は、ごまかそうにもごまかしようのない自分の涙を持て余して、 「上手ですね。……ごめんなさい、よく知ってる場所だから、昔のことを思い出したみたいで、……」と笑って指の腹で頬を拭った。  そして、絵を濡らしてしまわないようにスケッチブックをそっと閉じると、片手で口元を覆って、しばらく堪えてから、また明るく微笑んだ。  ところが、驚いたことに、これまでただ、黙って立っていた〝常連さん〟は、この時急に、里枝をまっすぐに見つめたまま、その目を赤く染めて、同じように涙を溢れさせたのだった。そして、恥じると言うより、何か秘密が露見してしまったかのように慌てて顔を伏せると、近くの商品棚に向かった。ほど経て、適当に手に取ったらしい赤いボールペンを一本持って戻ってくると、その目から涙はもう拭い去られていた。  会計を待つ間も、彼は堅く口を結んだまま、何も言葉を発しなかった。  里枝も、口を開かなかった。何が起きているのか、まるでわからなかったが、ただ、夜の訪れを前にして、蛍光灯に隅々まで照らし出された澄んだ静けさが、ひどく愛おしくて、その時間を壊してしまいたくなかった。  大祐が次に店を訪れたのは、一週間後のことだった。  里枝は初めて、「いらっしゃいませ。」ではなく、「こんにちは。」という挨拶をした。大祐も、「こんにちは。」と応じ、コピー用紙などの事務用品の支払いを済ませると、「あの、……」と顔を上げた。 「はい。」  里枝は大きな眼を心持ち瞠った。 「もし、ご迷惑でなければ、友達になっていただけませんか?」 「え?……あ、はい。……」  彼女は面喰らって、そう頷いた。そして、驚きのせいとも喜びのせいともつかない胸の高鳴りを感じた。 「友達」という言葉を聞いたのは、いつ以来だろうか?  本当に久しぶりのように感じたが、そんなはずはなかった。彼女はむしろ、この言葉を、横浜時代も、ここ地元に帰ってきてからも、嫌というほど目にし、耳にしていたはずだった。今では開いてみることさえなくなったフェイスブックでも、彼女は人並みに〈友達〉と繋がっていたし、ここではどこに行っても幼馴染みの友達だらけだった。   しかし、彼の口から発せられた「友達」という言葉は、それらのいずれとも違った新鮮な響きだった。こんな直接的な申し出は、子供の頃でさえなかったのではないか。冷静になってみれば、もういい歳の大人が口にしたなら気味悪くも感じそうだが、警戒が先に立たなかったのは、あのスケッチブックを見ていたからだろう。   ——ところで、友達になるとは、どういうことなのだろうか?  彼女は、自分が何に同意したのかさえ覚束なかった。 「お名前は何ておっしゃるんですか?」 「——谷口大祐と言います。」  彼は、あらかじめポケットの中に一枚だけ準備しておいた名刺を取り出した。微かに手が震えていて、それを恥じる様子だった。「伊東林産」という会社名と携帯電話の番号、メールアドレスが書かれていた。 「ごめんなさい、わたし今、名刺持ってないんですけど、……武本里枝です。書いておきますね。」  里枝は、レジの傍らの黄色い付箋のメモに手を伸ばした。 「……もしよかったら、今度の日曜日、ご飯でも、……」 「日曜日はわたし、息子のお守りをしないといけないんです。」  里枝は、種明かしするような、誤解の余地のない調子で言った。 「結婚してるんですか?」 「してました。——離婚して、子供と一緒に実家に戻って来たんです。」 「そうですか。……すみません、何も知らなくて。」 「知ってたら恐いですよ! だから、お友達って言っても、ここでお話しするくらいしかできないですけど。——大丈夫ですか?」 「はい、もちろんです。……十分です。」 「外回りもしてますけど、大体毎日、お店には出ますし。見ての通りヒマですから、またいつでも、絵を見せに来てください。何も買わなくてもいいですよ。」  谷口大祐は、それから十日に一度ほど店を訪れるようになり、段々と会話も長くなって、いつの頃からか、母親に店番を代わってもらって、一緒にお茶を飲んだりするようになった。仕事は林業で、大体現場は四時前に終わる。今は近くの山で作業しているので、終わってすぐに駆けつけていると言った。  ある時、里枝は、これまであえて触れずにいた、大祐の過去について尋ねてみた。  前夜からの豪雨で仕事が休みになった大祐が、お昼に訪ねてきたので、近所のうなぎ屋で一緒に昼ご飯を食べていた時のことだった。  自分の素姓については、あまり話したくないのだろうと察していたが、最近では、むしろ何かを聴いてもらいたいのではと、言葉の端々から感じていた。  食事を終えて、熱いお茶を飲んでいた大祐は、少し躊躇った後にこんな話をした。  元々、自分は、群馬県の伊香保温泉にあるとある旅館の次男坊で、三つ年上の兄が一人いる。  兄は所謂〝総領の甚六〟で、根は悪くないが、どうせ将来は旅館の跡継ぎになると思うと勉強にも身が入らず、中学時代からグレ始めて、随分と親に手を焼かせた。それでも、どうにか東京の私大に入り、その後、アメリカに二年間留学したが、帰国後は結局、友人たちと東京で飲食店の経営を始めた。  父も母も兄を溺愛していたので、根気強く戻って来るように説得し続けたが、終いには諦めて、渋々、次男の自分に会社を継がせることにした。自分は、良くも悪くも兄よりは地味で、地方の公立大学の経済学部を卒業していた。  父の会社に入ってからは、落胆した両親を励ましたい一心で、懸命に仕事に取り組んだ。徐々にだが、両親も、次男に将来を託すという考えを受け容れていった。ところが、しばらくすると、兄は事業に失敗して、多額の借金を背負って父に泣きついた。父は、それを肩代わりする条件として、旅館の跡を継ぐ決心をさせた。母も諸手を挙げて賛成し、ゆくゆくは兄が社長となることになり、自分は将来の「副社長」を約束された。  肩書きはどうであれ、実質的には自分が会社を支えなければならないことはわかっていた。けれども、そのために兄との関係がうまくいかなくなるのが怖かった。なぜそこまで「長男」というだけで愛されるのか、昔から疑問だったが、今でもわからない。自分は兄を愛していた。けれども、兄の方はそうでもなかった。  数年後、父に肝臓ガンが見つかった。七十一歳だった。かなり進行していて、助かるための唯一の方法は、移植手術だったが、それも可能性は高くないと告げられた。脳死患者からの提供を待つ余裕はなく、親族からの生体肝移植が唯一の方法だった。検査の結果、兄は脂肪肝で不可能だった。自分は適合的で、肝臓の状態も良かった。皮肉なことに、兄のようには不摂生でなかったから。——   生体肝移植は、提供する側にも後遺症のリスクがある。死ぬこともないわけじゃない。父は、生まれて初めて自分に頭を下げ、「親孝行」してほしいと手を握って泣いた。母と兄は、父に長生きしてほしいと言ったが、直接、父の願いを叶えてやるべきだとは言わなかった。ただ、そんなことはしなくていいとも言ってくれなかった。父に翻意を促すこともなく、自分のいない場所で、いつも三人だけの話し合いが持たれていた。見舞いに行って、その場面に出会すのは気まずかった。時間がなく、焦っているのはわかっていた。   最終的に、自分は生体肝移植に同意することにした。父にもっと生きていてほしいというのは、自分も同じだったし、母や兄の気持ちもよくわかった。だから、自分から進んで、気持ちよく提供する決心をした。   父は、本当に喜んでくれた。父が「ありがとう。」と言ってくれたのは、後にも先にも、その一度きりだった。兄は、父の将来の遺産は、弟のお前に全部譲ると言った。母もうれしそうだった。   しかし、残念ながら、父のガンの進行は予想以上に速く、結局、自分が移植の同意を悩んでいた間に、もう手遅れの状態になっていた。    父は、恐ろしく腹立たしげな、ほとんど憎しみを湛えたような顔で死んでいった。  家族みんなで悲しんだが、母も兄も、無意味になった自分の決断に対しては、金輪際、優しい言葉をかけてくれなかった。 「僕はやっぱり、ほっとしました。父の命を助けたかったけど、調べれば調べるほど、恐くなってましたので。……それで、父の死後、自分の中の何かが、もう決して元に戻せないくらい、壊れてしまっていることに気づいたんです。だから、……家族とは一切縁を切って、町をあとにしました。できるだけ遠くに行きたくて、……もう、決して会うつもりはありません。家族の話をするのは、これっきりです。」  大祐の打ち明け話を、里枝は途中で口を挟むことなく、最後まで黙って聴いた。彼がこんな辺鄙な町に辿り着いて、よりにもよって林業のような危険な重労働に携わり、休日は独り絵を描いて過ごし、半年以上もかけてようやく、自分に「友達になってください。」と告げたその心中を想像した。  彼の境遇に同情し、友情から、自分も何か、彼の告白の重みに釣り合う秘密を打ち明けねばならない気持ちになった。そして、自分が子供を病気で亡くしていること、その治療を巡る対立が、離婚の原因だったこと、帰郷を決めたのが続け様に起きた父の死であったことを話した。  大祐は、じっと里枝を見つめていたあと、少し俯いて、微かに二度頷いた。店の客が減ってゆき、鰻重のおぼんが下げられた。二人とも黙っていた。やがて大祐は、勇を鼓したように腕を伸ばして、テーブルの上の里枝の手を甲から握った。優しく覆った、と言った方がいいかもしれない。思いがけないことだったが、里枝は、そのチェーンソーの仕事でまめだらけの掌のぬくもりに慰められ、うれしいと感じた。彼がしなければ、自分の方から同じようにしていたかもしれない。  彼女はそのまま動かなかった。自分の人生に訪れている一つの変化に、身を委ねるべきかどうか、プラスチック製の大分くすんだ透明のコップに目を落としながら、しばらく考えていた。  結婚後、大祐は里枝の実家に住み、二人の間には女の子が一人生まれ、「花」と名づけられた。大祐が山で事故に遭ったのは、長男の悠人が十二歳、花が三歳の時だった。  病院に駆けつけた時、大祐は既に事切れていた。危険な仕事だけに、万が一の時の話は何度かされていたが、群馬の家族には絶対に連絡しないでほしい、死んでからも決して関わってはいけないと言われていた。  大祐の死後、一周忌を終えるまで、里枝はこの言葉を守ったが、母とも相談して、やはり家族には手紙で知らせることにした。遺骨はまだ、手元に置いたままで、墓をどうすべきかも相談したかった。  本当なら、生きていた間に、自分が夫と家族とを和解させてやるべきだったのかもしれないと、彼女には悔いる気持ちもあった。やり残したことの多い、あまりに唐突な死だった。  大祐の兄・谷口恭一は、手紙を受け取るとすぐに宮崎まで飛んで来た。  自宅の玄関で、レンタカーから降りた恭一を出迎えた里枝は、写真でしか見たことのなかった彼の印象が、思い描いていたのと違うのを感じた。  白いズボンに紺のジャケットを羽織っていて、どこかのブランドの大きなロゴのベルトをしていた。大祐に顔が似ていないことは知っていたが、彼が語っていたような、人はいいけれどだらしないといった雰囲気ではなく、むしろ、取っつきにくい自信家の風貌だった。  里枝は、「遠いところを、ありがとうございます。」と挨拶をしたが、親族として打ち解ける風のその態度に、恭一は何か怖いものに触れたような表情をした。そして、「暖かいですね、こっちは。」と言いながら、自分と同じ谷口姓を名乗っている彼女をしげしげと眺めた。彼の胸元にぶら下がっているサングラスに、困惑した笑みを湛えた母と自分の姿が映っているのを、里枝は目にした。    母が先導して居間に通したが、昼の日中には似つかわしくない香水の匂いが、廊下を歩く彼のあとにぞろぞろと付き従って、里枝の実家の田舎らしい生活臭を一斉に振り返らせた。恭一は、ソファに腰掛けながら、落ち着かぬ様子で、低い天井や写真が飾られた食器棚に頭を巡らせた。「こんなところで死んだのか。」とでも、うっかり口に出しそうな顔だった。  大祐が、いつこの町に来て、どんな生活をしていたのかは、既に手紙で伝えてあった。コーヒーを出すと、それには手をつけず、 「ご迷惑をおかけしました。」と言った。  里枝にとっては、予期せぬ言葉だった。 「いえ、……お葬式にお呼びもせずに、すみませんでした。」 「葬式代、墓代、その他、必要な分を請求してください。」 「いえ、それは、大丈夫です。」 「あいつは、僕のことを悪く言ってたでしょう?」  恭一は、煙草をポケットから取り出しかけて止めた。里枝は、その彼の顔を数秒見ていたあとで、 「昔のことは、あまり話しませんでした。ただ、家族とは、……」 「会いたがってなかったでしょう? いいんですよ、わかってますから。昔から、劣等感の塊みたいなヤツで、僻んでばかりいるうちに、性根がねじ曲がってしまって。僕とはあわなかったんですよ、元々、性格的に。家族って言ったって、そういうことあるでしょう? なんでもっとまともな生き方ができなかったのか。こんなとこで、木の下敷きで死んだなんて、……最後まで親不孝ですよ。オフクロにもまだ話してないんですよ。」  里枝は、表情にこそ出さなかったが、その口調にも内容にも反発した。悲しみを紛らせるために、わざと乱暴な言い方をしているとも思えなかった。彼女は、大祐の物静かな優しさを心から愛していたので、そんな風に見えていたというのは、まったく恭一自身の問題だと思った。そして、夫がどうして、あれほどまでに兄に会いたがらなかったのかを今更のように理解し、何度か連絡を取ってはどうかと促したことを謝りたい気持ちになった。 「子供、いるんでしょ? 大祐の?」 「はい。今はこども園に行ってます。」 「大変でしょう、一人で育てるの。うちも、三人いるんですよ。——女の子、ですよね、確か?」 「はい。」 「姪っ子なんだよな。……顔も見たかったけど、あんまり長居してもご迷惑でしょうし。ま、線香だけ上げさせてもらって、今日のところは。」 「そうしてあげてください。こちらです。」 「あ、これ、うちの旅館で作らせてる和菓子なんですけど、ものすごくおいしいんで、是非。和菓子ですけど、お茶でもコーヒーでも、何にでも合いますから。」  恭一はそう言って、菓子折を紙袋ごと差し出した。  里枝は仏間に案内して、「どうぞ。」と勧めた。母は、少し離れたところから二人の様子を窺っていた。恭一は、正座をして、しばらく遺影を見ていたあと、「これは?」と振り返った。 「亡くなる一年ほど前の写真です。」 「ああ、……どなたですか?」 「……どの写真ですか? ああ、そっちは父と息子です。」 「息子さん?……あ、いや、そっちじゃなくて、こっちです。大祐の遺影は、ないんですか?」 「……それですけど。」  恭一は、眉間に皺を寄せて、「ハ?」という顔をした。そして、もう一度写真に目を遣って、不審らしく里枝の顔を見上げた。 「これは大祐じゃないですよ。」 「……どういうことですか?」  恭一は、呆れたような、腹を立てているような眼で、里枝と母を交互に見た。そして、頬を引き攣らせながら笑った。 「……いや、全然わかんない。……ハ? この人が、弟の名を名乗ってたんですか? えっ、谷口大祐、ですよね?」 「そうです。……変わってますか、昔と?」 「いやいや、変わってるとか、そういうんじゃなくて、全然別人ですよ、コレ。」 「大祐さん、じゃないんですか? え、お兄さんの恭一さんですよね?」 「僕はそうですよ。」  しばらく沈黙が続いた。 「結婚届とか、死亡届とかって、役所に出してます?」 「もちろん、出してます。お兄さんとご家族の写真も、ずっと持ってましたから。」 「失礼ですけど、見せてもらっていいですか、今それ?」  里枝がアルバムを持ってくると、恭一は受け取って、座布団の上であぐらを?いた。そして、一ページ目から、首を突き出しながら、「誰コレ? ええ?……」と呟き続けた。   里枝は混乱していたが、恭一の失笑に、自分と大祐との結婚生活が嘲られたような侮辱を感じた。そして、大祐ではなく、この人こそ一体誰なのだろうと、気味が悪くなってきた。同じように恐くなってきたらしい母が、歩み寄ってきて娘の腕を取った。  デジカメで撮った写真の中から、大祐は特に気に入ったものをプリントアウトして、このアルバムに収めていた。  恭一は、大祐だと言い張るその男が、里枝と悠人、それに花と一緒に写っている写真をしげしげと眺めながら、最後のページまでアルバムを捲った。そして、恭一自身が実家で両親と一緒に写っている古い写真を目にしてギョッとした。その写真に、弟が写っていない理由を、彼は覚えていた。大祐がシャッターを押したからだった。  やがて顔を上げると、恭一は口許をヒクつかせて里枝の顔を見上げ、すぐに曖昧に目を逸らした。そして、憮然とした面持ちで言った。 「とにかく、あなたに何かヘンな企みがあるとかじゃないんだったら、……気の毒ですけど、あなた、この人に欺されてたんですよ。コイツは、僕の弟じゃないですから。誰かが大祐になりすましてたんですよ。」 「どういうことですか? じゃあ、誰なんですか?」  里枝は険しい面持ちで問い質した。 「知りませんよ、僕も。今初めて写真見たんだから。……とにかく、警察に行くしかないでしょう。詐欺かなんかじゃないですか?」 (続く) ☆☆ 本メールレターについて バックナンバー http://fcew36.asp.cuenote.jp/backnumber/hirano/mailletter/ 平野啓一郎への質問はこちらから! https://goo.gl/forms/SSZHGOmy2QBoFK7z2 『ある男』についてのご意見・ご感想募集中! https://goo.gl/forms/ewNWn9rx2MhkYq9x1 ☆☆ 掲載情報: 新作小説『ある男』が「文學界」6月号に掲載! http://www.bunshun.co.jp/mag/bungakukai/ ☆☆ イベント登壇情報 6/28(木)19:00〜調布国際音楽祭内「福田進一&大萩康司 ギターデュオ&リサイタル」に平野啓一郎がゲスト出演! http://chofumusicfestival.com/cmf2018/home/concert/guitar-duo/ ☆☆ 電子本のご案内 http://bit.ly/2qvb8Xk 【タイアップ小説集 〔電子版限定〕】 http://bit.ly/2pOabNs 【文学とワイン -第四夜 平野啓一郎-電子版】 ☆☆ 平野啓一郎公式サイト →https://k-hirano.com/ 平野啓一郎最新イベント・メディア掲載・出演情報掲載中 ☆『マチネの終わりに』特設サイト http://k-hirano.corkagency.com/lp/matinee-no-owari-ni/ 平野啓一郎公式ストア →https://storeshirano.stores.jp/ 『マチネの終わりに CD』やギフトセットなど ☆公式SNS・ブログ Twitter:https://twitter.com/hiranok note: https://note.mu/hiranok LINEブログ:http://lineblog.me/hiranokeiichiro/ ☆ メールレターの退会をご希望の方は、以下メールアドレスに空メールをお送りください。 hiranoresign@fcew36.asp.cuenote.jp