メールレター購読者さま こんにちは! 予想されてはいましたが、酷暑に毎日、ウンザリしています。 本当に、日中の外出は危険なほどですね。夏休みというと、毎日のように外で遊んでいた少年時代の記憶がありますが、気候変動のせいで、今の子供たちにとっては、夏はもう外に出られない季節ですね。…… 僕は、短篇も書き終えて、7月は執筆に関しては少しゆっくりしていました。 今月から二ヶ月に亘って、文学の森で、拙訳の『サロメ』を取り上げますが、折しも無名塾による上演があり、見てきました。 非常によく練られた演出で、特にヘロデ王の熱演振りには圧倒されました。詳しくは、文学の森* でも改めてお話しします。 他方、今月は芥川賞の選考会もあり、今回は「ハンチバック」が圧倒的に支持されて受賞となりました。僕もやはり、第一に推しましたが、「我が手の太陽」も良い作品でしたので、少し悩みました。 選考会後は、選考委員代表で記者会見もしたのですが、なんとなく、その場で僕が初めて受賞作を発表するような気がしていて、いざ席に着くと、「では、講評をお願いします」と、いきなり説明を求められ、思わず隣の編集者に「もう発表されてるんですか?」と確認してしまいました。考えてみたら、速報がいつも出てますし、そうですよね。 その後、市川さんご本人とも少しお話が出来ました。ともかく、短い作品ですが、非常に印象的な内容です。未読の方、是非! 8月は国際ドストエフスキー協会のシンポジウムに招待されていまして、このところ、またずっとドストエフスキーを読んでいます。 発表は、女性登場人物たちに注目したものになる予定です。またご報告しますね。 それでは、酷暑を何とか乗り切りましょう!! ではでは 平野啓一郎 ■ *「文学の森」8月31日のライヴ配信は、文学研究者の小川公代さんをゲストにお招きして、オスカー・ワイルドの人生と思想に着目しながら『サロメ』を語ります!(7月28日の平野さんが一人で解説する回も、アーカイヴをご視聴いただけます) https://bungakunomori.k-hirano.com/about ■ こんにちは!スタッフの岡崎です。 寝苦しいほどの暑さが続いていますが、いかがお過ごしでしょうか? 今月は、芥川賞が発表されましたね。「ハンチバック」は、発表後すぐに話題となり、芥川賞の最有力候補と噂されていたので、買って読んでみました。 文体・スタイルは王道ですが、なんといっても、書かれている内容が刺激的で、一気に読み終えました。色々と賛否もあるようですが、普段、自分が見ている世界とは全く違った視点から世界を見ることができたので、読んでよかったと思いました。 さて、後半は、平野さんが翻訳を手がけたオスカー・ワイルド『サロメ』(光文社古典新訳文庫)*より、巻末の「訳者あとがき」を特別公開します! 恋に落ちた相手の首を求めるサロメのストーリーは、これまでにも様々な解釈と議論を生み出してきました。「この少女、狂ってるな…」と他人事のように読んでしまいがちですが(僕はそうでした)、しかし平野さんは「悦び」という観点からサロメの悲劇性を解き明かし、「果たしてそれは、独りサロメのみの問題であろうか? 人間は誰もが、"悦び"に"呪われている"のではあるまいか?」と問いかけます。 「あえて原作通りに訳さなかった箇所」についても言及されており、翻訳の奥深さも垣間見ることのできる内容です。 ぜひ、最後までお楽しみください! ■ *ワイルド『サロメ』(光文社古典新訳文庫) 作品ページはこちら:https://www.kotensinyaku.jp/books/book146/ ■ 平野啓一郎による訳者あとがき 「その夜、ヘロデの宮殿で何が起きていたのか?」 === 【Ⅰ 一九九五年の《サロメ》in 京都】  オスカー・ワイルドとの出会いは、私の場合、谷崎・三島経由で、愛読していた彼らが愛読していた作家というので、読む前からもう、好きに違いないと思っていて、読んでやっぱり好きになった。殊に、若き日の三島の才気煥発たる《オスカア・ワイルド論》は、三島にともワイルドにともつかない、憧れに似た感動を私に抱かせた。  ワイルドの著作で最初に手に取ったのは、新潮文庫の《ドリアン・グレイの肖像》(福田恆存訳)と《サロメ・ウィンダミア卿夫人の扇》(西村孝次訳)だった。それから、童話集《幸福な王子》を読み、幼時からよく知っていたこの表題作が、ワイルドの作であることを知って驚いた。  大学に入ってから、〈芸術家としての批評家〉を読む英語の授業を履修し、その時に、青土社の《オスカー・ワイルド全集 第四巻》で、〈芸術論〉や〈社会主義下の人間の魂〉を併せ読み、批評家ワイルドに興味を持った。  取り分け、私家版として限られた人だけが読んだらしい〈社会主義下の人間の魂〉は、その割に大衆向けで、彼が当時、どういうことを考えながら生きていたかが、端的に、直截に語られていて面白い。「大部分の人間は不健康に誇張された愛他主義のために自分の人生をだめにしている」といった、同時代人のニーチェとも呼応する力強い個人礼讃、とにかく貧困こそが犯罪を誘発し、個性の陶冶を妨げているという“格差社会論”、「古典を権威にまで堕落させ」、新しい「美」の創造に対して古典を「棍棒として」振り回す保守的な読者への揶揄、「俗悪と愚劣が現代生活における二つの非常に生々しい事実」と断ずるイギリス社会の批判、ジャーナリズム論、政治論、……等々、作品はもとより、オスカー・ワイルドという人物そのものに興味を持った人には、格好の自己紹介として読めるだろう。     私のワイルド熱が最も高まったのは大学時代だが、殊に、一九九五年に《サロメ》を読んだことは、強く記憶に残っている。  私が京都に住み始めたのは、その前年の九四年からである。京大生協の書店に行って、一番に目に飛び込んできたのは、丁度その前年に河出書房新社から刊行が開始された《澁澤龍彦全集》(全二二巻 別巻二巻)だった。私はまだシブタツを読んだことがなかったが、何よりもその全集は、量的に、体積的に目立っていた。河出文庫でも、彼の本は文庫棚の他を圧倒していて、私もその後よく読んだが、周りのアート好き女子にもファンが多かった。  当時の京都では(少なくとも百万遍界隈では)、シュルレアリスム、幻想文学、世紀末デカダン文学などに強い一乗寺の恵文社や三条御幸町のアスタルテ書房などが、知る人ぞ知る書店として、特異な存在感を放っていた。九四年と言えば、仏文学者の生田耕作が亡くなった年でもあり、私もブルトンやバタイユ、セリーヌ、マンディアルグ、ジュネなど、生田訳の“異端的フランス文学”を読み始めていた。生田は、奢覇都館(さばとやかた)という物々しい名前の出版社から本を出していて、学生時代の私も、ウィリアム・ベックフォードの《ヴァテック》など、箱入りの珍しい本を、やたらと高い値段で買ったりしたものである。  大学に入りたての私は、そうした幻想的で、耽美的な世界に強く心惹かれていた。  他の町でどうだったのかは知らないが、九〇年代後半の京都では、そんな現実離れした、摩訶不思議な文学が秘やかに読まれていたのである。  世はバブル崩壊の閉塞感に喘いでおり、九五年の阪神・淡路大震災と地下鉄サリン事件は、更に決定的な追い打ちをかけた。今のようにネットがあるわけでもなく、みんな押し黙ったまま、「世紀末」という言葉に不気味なリアリティを感じていた。  私がワイルドを読んでいたのは、そういう雰囲気の中だった。 《サロメ》に限定して言うと、大学入学直後の九四年に、私はビアズリーの挿絵が欲しくて、岩波文庫の福田恆存訳を買っている。妙な符合だが、講談社文芸文庫から日夏耿之介訳の《ポオ詩集・サロメ》が刊行されたのが翌九五年で、西村訳、福田訳に親しんでいた私は、その神韻縹渺たる翻訳世界にショックを受けた。更に同年、京都国立近代美術館(東京では国立西洋美術館)で大規模な〈ギュスターヴ・モロー展〉が開催され、《サロメ》はそこでも、特権的な輝きを放っていた。カラヤン/ウィーン・フィルによるリヒャルト・シュトラウスの《サロメ》をよく聴いたのも、その時期だった。  こうして、一九七五年生まれの私は、一九九五年、二十歳の時に、様々にお膳立てされてワイルドの《サロメ》を読んでいた。が、そもそも、三島の影響下でワイルドを知ったはずの私は、彼の《オスカア・ワイルド論》から既に半世紀近くが経っているのに、依然としてビアズリーの挿絵だとか、日夏耿之介訳だとかに取り囲まれていた。  その変わらなさにこそ、今回、新訳が求められた理由があった。 【Ⅱ 翻訳文学の時間】  そもそも、田舎の文学少年だった私の読書は、ひたすら文庫で、十代までに読んだ本の履歴は、文学史の教科書のようにオーセンティックなものだった。それで完全に満たされていたし、今振り返ってみても、良かったと思っている。  ところで、当時私がそんなふうにして読んでいた海外の翻訳文学は、まだかなりのものが、旧字旧仮名遣いの蒼古とした文体だった。手許にある岩波文庫の福田恆存訳《サロメ》は、「九四年第四九刷」となっているが、まだ旧字旧仮名遣いである。  この点は、大いに強調しておきたいが、光文社古典新訳文庫で、亀山郁夫訳の《カラマーゾフの兄弟》が爆発的なブームを巻き起こす二〇〇〇年代まで、海外文学の取り分け文庫の翻訳は、まったく更新されていなかった。バブルがあって、ポストモダニズムの洗礼があり、現代文学の文体は刻々と変化し、多様化していったが、その間も、おかしな話だが、古い日本語の文体は、海外文学の文庫の中に、ひっそりと生き続けていたのである。  例えば私は、ランボーの《地獄の季節》を小林秀雄訳で読み、ボードレールの《悪の華》を鈴木信太郎訳で読んでいる。それは、殊更に私に妙な骨董趣味があったからではなく、普通に本屋で売っていた安い岩波文庫がそうだったからである。お陰で私は、祖父母の世代の読書人たちと、まったく変わらない文学体験をすることとなった。  この海外文学の翻訳の停滞がもたらした、現代作家の文体への影響は、決して小さくないはずだが、それを正面から取り上げた批評を、私は寡聞にして知らない。私の初期の文体は、勿論、他方で鴎外や鏡花などの集中的な読書があったにせよ、海外文学の古い翻訳が染みついていることは間違いない。決して降って湧いたような突飛なものではなかったのである。そうした昔の「彫心鏤骨(るこつ)の文体」などという謳い文句が躍っていた名訳に対する私の愛着は、揺るがせようがない。  翻訳体験には、なるほど、どこか昔の旅の思い出に似たところがある。古い名訳で親しんだ作品は、幾ら新しく、もっと良い訳になっていると言われても、何となく、景観破壊的な不満を覚えるものである。  しかし、原作に時代を越えるポテンシャルがあるにも拘らず、翻訳にそれがなく、結果、諸共に時代に取り残されてしまう、ということはある。逆に、翻訳が原作のポテンシャル以上に時代を越えさせることもあるだろう。いずれにせよ、翻訳作品が現代の読者から遅れ始め、遠ざかり始めたならば、新訳を考える時機である。  今回、私に《サロメ》の新訳を依頼したのは、演出家の宮本亜門氏である。新しい舞台のために、どうしても旧訳では難しいという宮本氏の判断を、私は尤もだと感じた。 《サロメ》の原作には、元々、ただ一つの“昔”しかなかった。  ワイルドがこの作品を書いた十九世紀末には、その“昔”とは、作品の舞台となっている古代オリエントである。ところが、更に時を経ると、ワイルドが生きていたその世紀末自体が、もう一つの“昔”になって、作品は二重の“昔”を帯びることとなった。  そして、特異な日夏訳を除くとしても、西村訳、福田訳のいずれもが、古風な数十年前の日本語になってしまい、原作に更に余計な三つ目の“昔”を加えている。それはそれとして尊重したいが、現代の読者のためには、この一つ目と二つ目の“昔”を生かしつつ、三つ目の“昔”を更新すべきであろう。  翻訳を引き受けた時、考えていたのは、飽くまで文体のことだった。しかし、原作を精読するうちに、私はむしろ、先ほどくどくどしく並べ立てたようなものの一切合切を、一度きれいに洗い流す必要を感じた。モローだとか、ビアズリーだとかによって、ワイルドの《サロメ》は、随分と塗りつぶされてしまっている。  三島は、生まれて初めて自分で選んで買った本が、ビアズリーの挿絵入りの《サロメ》だったと言い、件の《オスカア・ワイルド論》の冒頭で、「ビアズレイを選ぶことと、《サロメ》を選ぶこととの間に、そもそもどれだけの径庭があろうか。そこに明証を呈示している一時代の雰囲気を私は躊躇なく選びとったのではあるまいか。」と書いている。  時代精神に於いて、両者は同根だと、彼は言う。この断言には強い感化力があり、実際、ビアズリーの――元々は挿絵として描かれたわけではなく、ワイルド自身も気に入っていなかった――連作が、あまりに傑作であるがために、それ抜きにしてはこの戯曲を語れないという人もいるだろう。  しかし、私は今回、原作を読み返しながら、両者はやはり随分と違うと感じた。ワイルド本人が感じていた違和感をこそ尊重すべきだと思った。モローとも違う。リヒャルト・シュトラウスとも違う。日夏耿之介とも違う。それらが嗅がせる馥郁たる、幻惑的な香りが心地いいのも事実だが、新訳では、そもそもワイルドが何を表現したかったかに集中することにした。 【Ⅲ その夜、ヘロデの宮殿で何が起きていたのか?】 《サロメ》で取り上げられているのは、洗礼者ヨハネ(ヨカナーン)が、ヘロデ・アンティパスの命により、斬首されてしまったという、〈マルコによる福音書〉(六章十四節~二十九節)、〈マタイによる福音書〉(十四章一節~十二節)を出典とする事件である。  一体、その夜、ヘロデの宮殿で何が起きていたのか? 《サロメ》は、血なまぐさい、ショッキングなシーンをクライマックスに据えているが、全篇は、その謎を解き明かすための緊迫した心理劇となっている。その中心をなすのは、勿論、サロメである。  私は、ワイルドのサロメを、ビアズリーやモローのサロメから隔離し、そのイメージの感染から守ってやることをまず考えた。  ビアズリーのサロメは、淫猥な毒婦の相である。モローのサロメは、豪奢で耽美的な幻想に包まれている。そのイメージがそのまま、最後にヨカナーンの首をサロメが要求する根拠となっている。  しかし、ワイルドのサロメは、もっと少女的で、愛らしい。強いて言えば、純真である。  月は、この作品でサロメの象徴として描かれているが、その月の清らかさを、彼女はこんなふうに語っている。 「きっと、あの子は処女ね。処女の美しさよ。……そう、処女。決して穢れを知らない。他の女神たちみたいに、男のものになったことなんて、一度もないのよ。」  サロメは、最後にヨカナーンの首を手に入れて、何と言っているか? 「わたしは一人の王女だった、そして、お前はわたしを侮辱した。わたしは、処女だった、そしてお前はわたしを穢した。わたしは純潔だった、そしてお前は、わたしの血の管を炎で満たした。」  そう、彼女は処女である。血塗れのヨカナーンの口にキスをして、「苦いのね、お前の口唇って。血の味なの?……ううん、ひょっとすると、恋の味なのかも。恋って、苦い味がするって、よく言うから。」と言うくらいであるから、キスさえまともにしたことがなく、恋の何たるかさえ、自らの経験としては知らない。ただ「苦い味がする」らしいと聞き知っているだけである。  サロメは、自分の置かれている環境のすべてに倦んでいる。  彼女が舞台に登場する際の、最初の最も重要な台詞は、「これ以上、あんなところにはいられないわ。もうたくさん。」である。「あんなところ」とは、具体的にはヘロデの誕生日の祝宴であるが、それは同時に、彼女が生きている世界そのものである。ヘロデは、父より王の地位を受け継ぐことさえ叶わなかった「四分封領主(アンティパス)」であり、「この世の主」たる皇帝(カエサル)に憧れる、いわば、ミニチュアの「この世の主」である。ヘロデの宮殿とは、そういう場所である。  サロメは、その純粋さの故に、「N’IMPORTE OU HORS DU MONDE(ANYWHERE OUT OF THE WORLD)」(ボードレール)に飢えている。だからこそ、彼女はヨカナーンの存在に魅了される。「恋」をする。なぜなら、キリストの到来を告げ、神の言葉を語る彼もまた、「この世」を否定する「純潔」な人間だからである。  自己紹介に始まるサロメのヨカナーンへのアプローチは、無邪気そのものである。ところが、それに対するヨカナーンの反応は、苛烈を極めている。いきなり、「下がれ! バビロンの娘よ!」と叫び、一切を拒絶してしまう。  歴代の翻訳者が、最も翻訳に手を焼いているのが、このヨカナーンで、私も骨を折った。  ヨカナーンの言葉は、大別して三系統に分けられる。「私を見ているあの女は何者だ? 私は、あの女に見られることなど望んではいない。」といった、人間ヨカナーンの呟き。「下がれ! バビロンの娘よ!」という、預言者としての言葉。そして、「パレスチナの大地よ、汝を打擲せし者の鞭が折れようとも、ゆめゆめ歓ぶなかれ。やがて蛇の種族より怪蛇バジリスクが出現し、その生みしものが鳥たちを貪り喰らうであろうから。」といった類の預言そのものである。  預言は、旧約聖書の〈イザヤ書〉や、同じヨハネでもヨハネ違いの〈ヨハネによる黙示録〉に多く出典がある。彼が「バビロンの娘」と言うのは、〈黙示録〉(十七章五節)の「大バビロン、みだらな女たちや、地上の忌まわしい者たちの母」に由来している。そして、ヘロディアの遊蕩を厳しく戒め、「悔い改めよ」と告げるヨカナーンは、バビロンとは即ちヘロディアであることを明かしている。この点が、非常に重要になってくる。  サロメは最後まで、ヨカナーンが、なぜ自分を、こんな激烈な言葉で峻拒するのかが理解できない。まだ処女の彼女が、「バビロンの娘よ!」などと一喝されて動揺するのは、今日の読者の目から見ても当然と感じられるだろう。  ヨカナーンは、サロメが”実際に”処女かどうかなど、まったく問題にしていない。彼のターゲットは、サロメ本人も無自覚の、母ヘロディアから受け継いだ、”バビロン的なるもの”である。サロメは確かに、「この世」の堕落に辟易し、「この世」ならぬ何かを求めている。純真である。だから、ヨカナーンに魅了された。ところが、その無邪気なアプローチには、「ヨカナーン! お前の体が愛おしい。」と正直に語ってしまうような、母親譲りの欲望が露わになっている。  サロメには確かに”色気”がある。しかしそれは、自ら知悉し、自在に行使する色気ではなく、無意識に溢れ出てしまうような色気である。「悦び plaisir/pleasure」というのは、ワイルドにとって重要な概念だったが、サロメはつまり、「悦び」に「呪われている」のである。  ここにこそ、サロメの悲劇性がある。サロメは決して、単に純真であるわけではない。しかし、よく誤解されているような淫婦でもない。純真であるにも拘らず、まったく身に覚えのない淫婦性を母から受け継いでしまっている。生まれながらにして、”バビロン的なるもの”を帯びさせられている。  しかし、果たしてそれは、独りサロメのみの問題であろうか? 人間は誰もが、「悦び」に「呪われている」のではあるまいか? “バビロン的なるもの”を孕んでいるのではあるまいか?  ワイルドは一体、何を問題にしているのか?――そう、原罪である。サロメはつまり、この後、キリスト教徒が苦悩し続けるあの原罪感覚を、キリスト教誕生前夜に、唐突に、”過剰に”担わされた人物として造形されている。  ヨカナーンがサロメに、未然であるはずの「罪の赦し」を迫るのは、フーコーが《性の歴史Ⅰ 知への意志》で論じている通り、性の言説化を戦略の中心に据え、「告白」を制度化して権力関係を構築してゆく、この後の教会の”預言的”実行となっている。ワイルドは、フーコーに先んじて「我らヴィクトリア朝の人間」たるサロメを創造したのである。     少し目先を変えてみよう。  矮小化された「この世の主」ヘロデは、実は、サロメと同様に、「この世」に満たされていない。しかも、サロメとは違って、彼自身は「近親相姦」という「罪」を自覚し、怯えている。だからこそ、サロメがヨカナーンに魅了されるのと同様に、ヘロデもサロメに魅了されている。そして、並行的にヨカナーンを尊重する。  これに対し、ヘロディアはヨカナーンをまったく恐れない。彼女には「罪」の意識もなく、ヘロデと違い、自らの寄る辺として高貴な血筋がある。迷信を一切信じない。それでも、彼女はヨカナーンの声に不愉快になる。そして、夫がサロメを「見る」ことにも我慢がならない。  つとに指摘されてきた通り、《サロメ》は、視線のドラマである。対象への欲望が、「見る」という行為にすべて直結している。そして、互いに相見るのではなく、一方的に見ることの悲劇性が、隅々にまで浸透している。  ヘロディアの近習は、若いシリア人を見ている。若いシリア人は、サロメを見ている。ヘロデもサロメを見ている。しかしサロメは、ヨカナーンを見ている。ヨカナーンは神を見ている。そうしてこの世界には、一つの大きな穴が空いている。神は人間を見ているのであろうか? 斬首された後、ヨカナーンはもう目を開こうとはしない。……  ところで、登場人物中、唯一、誰も見ていないのが、ヘロディアである。このことをどう考えるべきであろうか? 特に、娘であるサロメを見ていないことは、ヘロデが何度繰り返そうと、その「蒼褪めた顔色」に気がつかないということで強調されている。そして、ヘロデの「暗い顔」も見ていない。  ヘロデを魅了するサロメに、母ヘロディアが嫉妬し、不愉快になっているというのは、端々で察せられる。では、恐れてもいないヨカナーンの声が、彼女を苛立たせるのは何故だろうか?  実はヘロディアのどこにも向けられない視線は、かつては、ヨカナーンに向けられていた、という想像は可能であろうか? つまり、サロメと同様に、ヘロディアもヨカナーンに「恋」をしていた、と。  ワイルドの《サロメ》をそう読むかどうかはともかく、サロメ伝説自体に纏わるそうした解釈は、実際に存在している。  マリオ・プラーツの《肉体と死と悪魔 ロマンティック・アゴニー》は、私がやはり、一九九五年頃に夢中になって読んだ、ロマン主義的感性の百科事典のような本である。  その中でプラーツは、ヨカナーンの首に接吻するという《サロメ》の有名な場面は、元々ワイルドの創意ではなく、ハイネが《アッタ・トロル》の中で歌った次の箇所に負うていると指摘している。「両手には、いつまでも/ヨハネの首を載せた盆をもち、/そして、それに接吻する。/そうだ、熱烈にその首に接吻するのだ。」ただし、ここで接吻しているのは、サロメではなく、ヘロディアである。「というのも、女王はむかしヨハネを恋していたからだ。――/聖書にそのことは書かれていない。/が、人々はヘロデアの、/血なまぐさい恋物語の記憶を忘れてはいなかった。――//そうでもなければ、女王がみせた欲情の/何故なのか説明もつくまい。――/愛してもいない男の首なんぞ、/所望する女なぞいるはずがない。」  ヨカナーンの首が求められた理由として、「恋」が重要だったというのは、確かに、決定的な想像力である。「聖書にそのことは書かれていない。」プラーツは、ワイルドの《サロメ》を「二番煎じ」として高く評価していない。しかし、サロメは純真な子供であり、恐ろしいのは母のヘロディアだという、聖書からフローベールの《エロディア》に至るまで脈々と続いてきた役割分担を統合し、純真なサロメの内側に、彼女をそそのかす”バビロン的なるもの”を内在させた、というのは、ワイルドの非常に冴えた、革新的なアイディアだった。これによって、サロメは二重性を帯びた人物となった。まるで、我々そのもののように。  ワイルドのサロメのこうした理解は、人によっては、ナイーヴ過ぎるのではないかと、思われるかもしれない。恐らく、一番そう思うのは、この芝居を見た当時の人たちだろう。  彼らは、聖書の一エピソードを、こんなエロ・グロ・ナンセンスに仕立て上げてしまった、ワイルドの冷笑的な、”世紀末的頽廃美”に呆れ果てた。ロンドンでは、《サロメ》は稽古中に上演中止となり、パリでの上演も評判は芳しくなかった。  しかし、誰もが当たり前のように信じている、ワイルドこそは、この時代の頽廃的美学の代表者だという見方に、私は時々懐疑的になる。むしろ、周りがそう見過ぎていて、ワイルドの作品の根底にある、〈幸福な王子〉的な、〈わがままな大男〉的な、あまりにナイーヴな一面を、「まさか」と信じていないのではないだろうか?  プラーツはしきりに、ハイネやラフォルグが、サロメ伝説を悲劇からアイロニーへと転換してみせた腕前に感心していて、それに比べれば、ワイルドの「二番煎じ」にはキレがないと批判的だが、ヨカナーンの首に電気を流すと、ショックで渋面を作った、などというラフォルグのパロディは、ワイルドの創作意図とは、恐らくまったく別のところにあった。ワイルドは、根本的に「まじめが肝心」の人だった。彼が、自作に対する同時代人たちの反応を無理解と感じていたのは、洒落が通じない、という意味ではなく、むしろなぜその「まじめ」が通じないのか、という意味ではなかったか。     ヨカナーンは、サロメに対して、「不貞の娘、汝を救うことが出来るのはただ一人。」と、ナザレのイエスを探しに行くように命じる。  ワイルドは〈社会主義下の人間の魂〉の中で、「金持ち以上に金のことを考えている階級が社会にひとつだけある、そしてそれは金のない連中である。」と言い、貧困がいかに人間の個性の妨げになっているかを力説している。そして、イエスが貧者に言っているのは、こういうことだと解説する。「おまえにはすばらしい個性がある。それを発展させるのだ。おまえ自身であれ。おまえの完成が外的なものの蓄積や所有にあると思うな。おまえの完成はおまえの内にあるのだ。」と。  欲望の対象を金ではなく、性的な「悦び」と読み替えるならば、このヨカナーンの台詞は、こう解釈できる。サロメよ、お前は、母より受け継いだ”バビロン的なるもの”によって「呪われている」。後にそれは、原罪と呼ばれるものだ。しかし、もしイエスの元で悔い改めるのであれば、お前は救われる。つまり、純真な「おまえ自身」であり得るのだ、と。  サロメは、しかし、これに従わない。その意味さえ理解しない。むしろ、ヨカナーンの拒絶と侮辱に刺激されて、却って哀れにも「恋」を募らせてしまう。  サロメは、ヨカナーンほど美しい存在は、「この世にまたとない」と繰り返す。これは、ヘロデがサロメへの褒美として次々に例示するあらゆる「この世」的な財宝と、対照的である。  サロメは、それらに完全に無感動である。しかし、踊りによって最高潮に達した彼女の肉体の魅力は、そうした彼女自身の興味とは無関係に、それらに値する価値を持っている。”色気”を放つ。丁度、ヘロディアが父を魅了したように。母と娘との違いは、娘が母のように、その自分に満足できない、という点である。そのことを残酷に告げたのは、自分が真に望んだ「この世」ならぬヨカナーンを、まったく魅了できなかった事実である。  サロメは、最後には恐ろしい残酷さを発揮する。それが不気味であるのは、彼女が無邪気であるからに外ならない。彼女がヨカナーンの首を求めるのは、ただその口唇にキスがしたいからである。それは、ヨカナーンにどうしても会いたいという、彼女の最初のささやかな”わがまま”の延長上にある。サロメは、我々の誰しもと同じように「悦び」に「呪われている」。ただ、典型を逸脱するほどに”過剰”であるに過ぎない。そして、ヨカナーンを殺すというその罪によって、ヨカナーンの彼女に纏わる預言は、アイロニカルに成就する。そして、今度こそ、彼女自身が罪を認め、償い得たかもしれないというまさにその時に、それを”赦さない”のが、イエスではなく、「この世」の象徴たるヘロデである、という結末には、ワイルド自身の後の投獄を預言するかのような、もう一つのアイロニーがある。  このダイナミックな世界観の衝突こそが、ビアズリーになく、ワイルドにあるものである。 【Ⅳ 翻訳について】 《サロメ》の原作は、実は英語ではなく、フランス語で書かれている。今回、翻訳の話を人としていて、この事実が意外と知られていないのに気がついた。  底本には、Wilde, Oscar. Salome;, Paris: Presses Universitaires de France, 2008. を用い、英訳を始め、日夏耿之介、西村孝次、福田恆存の旧訳、解説も適宜参考にした。また、《サロメ図像学》(井村君江著)、《サロメ誕生 フローベール/ワイルド》(工藤庸子著)からは多くの示唆を得た。  アイルランド人のワイルドは、フランス語も達者だったようだが、草稿には、ピエール・ルイス、マルセル・シュオッブ、アンドレ・ジイドらが目を通しているらしい。英訳は当然、本人が手懸けているのかと思いきや、そうではなく、翻訳者名は、彼の同性愛スキャンダルの相手であるアルフレッド・ダグラス卿である。この複雑な経緯は、それ自体興味深いが、ここでは深入りしない。  私は今回、英語版からの重訳ではなく、フランス語原本からの翻訳を依頼され、それに従ったが、読み比べてみて、両者の間に内容上の大きな異同はなかった。  既訳もあり、英訳もあるということで、翻訳は素人の私でも、蛮勇を奮ってこの仕事を引き受けられたが、《サロメ》のフランス語そのものは、戯曲ということもあって、決して込み入った、難しいものではない。登場人物の心理の動きは、息詰まるほどに緻密だが、台詞自体には、俳優の演技とよく絡む隙があり、私はそれを言葉で埋めすぎないように気を遣った。結局その隙が、俳優だけではなく、様々な芸術家の想像力を刺激してきたのだろう。  訳していて興味深かったのは、比喩の重ね方で、通常は喩えられるべき対象と比喩とを一対一で対応させ、しっかりと固定するものだが、《サロメ》では、一対多で横滑りするように流動的に語られる箇所が目につく。一例が次のような文章である。 「姫が扇で顔を隠してしまった! あの白い小さな手の、巣箱に向かって羽ばたく鳩のような動き。むしろ白い蝶かな。うん、そうだ、あの手は白い蝶だ。」  扇を持つ手と鳩と蝶とは、質量感的にもかなり違うが、私はこのイメージの連鎖に、象徴派よりも、シュルレアリスムに近いものを感じた。ブニュエルがダリと一緒に撮った映画《アンダルシアの犬》にでも出てきそうな、メタモルフォーゼ的な比喩の展開が、幻想的な雰囲気を醸し出している。     基本的に、私の物書きとしての「我」は、小説執筆で満たされているので、《サロメ》の翻訳では、「平野啓一郎訳」という色を強く出す気はなかった。私の野心は、むしろ、日本語の《サロメ》そのものを更新し、新しい時代のスタンダードな翻訳を作りたい、というところにあり、そうなると、謙虚なのか不遜なのかはわからないが、いずれにせよ、虚心に取り組んだ。従って、翻訳は極力原作に忠実に、曲げて訳したり、逆に日本語としてこなれすぎて別の話にしてしまう、というようなことを避けた。が、一箇所だけ、敢えて原作通りには訳さなかった箇所がある。  それは、若いシリア人が自殺した後の、ヘロディアの近習の台詞(33、35頁)で、「だけど、その探していたのが、まさか君だったなんて。」は、原文(英訳)では、「Mais je ne savais pas que c’etait lui qe’elle cherchait.(but I knew not that it was he whom she sought.)」である。以下、「彼(若いシリア人)」と訳すべきil/lui(he/him)を、二回に分けて語られるヘロディアの近習の台詞全般に亘って、「君」と直接的な呼びかけに変更した。  理由は二つある。一つは、「彼」という日本語の問題である。フランス語のilや英語のheは、階級や性別、その人物の性格などと無関係に、誰でも用いる三人称単数形の人称代名詞である。しかし、日本語の「彼」という言葉は、必ずしも誰もが用いるわけではない。  会話の中で、「あの人」とか「あいつ」とか「○○君」という言葉は遣っても、「彼」という言葉は一度も遣ったことがないという人は、決して少なくない。「彼」という日本語は、基本的な語彙であるにも拘わらず、発声すると、どことなく大人びた、ややスノッブな響きになってしまう。フランス語や英語の小説で、元気な若者たちがilやheを遣って喋ることには何の違和感もないが、日本語でそれをすべて「彼」にしてしまうと、急に妙な具合になる。  殊に、この誰に向けてというわけではない、ヘロディアの近習の独白場面では、「彼は」、「彼に」というリフレインがやや他人行儀に耳に立つので、「……」以降、思いきって「君」と直接、死んだ若いシリア人に語りかける台詞にした。  理由のもう一つは、日夏耿之介もわざわざ注意書きに「若きスリヤ人と侍僮との間には仄かに同性の愛意あるものと解釈す。」と記している通り、二人の親密さの意味を、顔を向かい合わせて、より端的に強調したかったからである。最後にサロメがヨカナーンの首と向かい合う場面とも対照的で、効果的だと思う。  演出としては、「彼」と周りに言いかけてから、むしろ周りはもう関係なく、若いシリア人だけに向かって「君」と語りかけ始める芝居がいいのではないかと思うが、気になる読者、演出家は、頭の中で「君」を「彼」と元に戻しながら読まれるといいと思う。     登場人物の名前の表記に関しては、やや判断に迷った。  フランス語原作からの翻訳という点に拘って、福田訳のように、HERODを「エロド」とすることも考えたが、「ヘロデ」と言われれば、ああ、とわかる人が多いのに、敢えてそうすべき意義を感じなかった。IOKANAANは、その意味では「ヨハネ」の方がわかりやすいだろうが、作者がわざわざ、JOHNでもJEANでもなく、古代ヘブライ語の発音で表記しているのだから、そのまま「ヨカナーン」とした。これは、ワイルドが愛読していたフローベールの《エロディア》の影響だろう。  この問題を考えていて、一つ疑問が湧いてきたのだが、そもそもこの夜、ヘロデの宮殿に集まっていた人々は、何語で喋っていたのだろうか?  ヘロデやヘロディアなどはアラム語を喋っていたのかもしれないが、ローマからの使者たちとはラテン語だったのか? フローベールの《エロディア》の中では、シリア総督であるヴィテリウスという登場人物に、ちゃんと通訳がついている。兵士たちは、しきりにヨカナーンの言葉がわからないと言っていて、これまでは当たり前のように、その晦渋な預言の内容が理解できないのだろうと思われてきたが、ひょっとすると、彼のヘブライ語のせいなのではあるまいか? サロメとヨカナーンとのやりとりも、古語が多用されている英語版では蒼古とした印象がある。アラム語とヘブライ語とは近い言語だったようだが、私が分類したヨカナーンの三系統の台詞も、アラム語とヘブライ語で語り分けられていた、という設定の可能性がある。想像の膨らむ問題だが、そう考え出すと、いよいよ、登場人物名が、英語読みか、フランス語読みか、ということには意味がないように感じられた。     こういった諸々の疑問のために、私は、英文学者でワイルドが御専門の田中裕介氏に助言を仰ぎ、草稿の段階から細かにチェックして戴いて、多大なご教示を受けた。氏の懇篤な御協力なしには、拙訳の完成はありえなかった。この場を借りて厚くお礼を申し上げたい。無論、瑕疵があれば、それは、全面的に翻訳者の私の責任である。  あとがきについても、私は田中氏に甘えて、役割分担していただいた。ワイルド及び《サロメ》についての最新の研究を踏まえた解説や注釈については、氏にお任せした方が、読者にとっても大いに益となるに違いない。そのお陰で、私は翻訳者として感じ、考えたことを、窮屈なくつらつら書き連ねることが出来た。  最後に、光文社翻訳編集部の駒井稔氏、担当をしてくださった須川善行氏、今野哲男氏、またそもそもこの新訳を私に依頼してくださった宮本亜門氏、新国立劇場の高瀬磨理子氏にも、この場を借りてお礼を申し上げたい。     二〇一二年二月六日 平野啓一郎  ■ 〈お知らせ〉 ◎「平野啓一郎の文学の森」について https://bungakunomori.k-hirano.com/about ◎ インタヴュー、講演録、対談などが読める平野啓一郎公式サイトはこちらから https://k-hirano.com/articles ◎ 「分人主義」公式サイトはこちらから https://dividualism.k-hirano.com/ ◎ 平野啓一郎へのご質問はこちらからお寄せください https://goo.gl/forms/SSZHGOmy2QBoFK7z2 ■ 〈近年の刊行書籍〉 『三島由紀夫論』(2023/4/26刊行) https://www.shinchosha.co.jp/book/426010/ 『死刑について』(2022/6/17刊行) https://www.amazon.co.jp/dp/4000615408/ 『小説の読み方』文庫(2022/5/11刊行) https://www.amazon.co.jp/dp/4569902197/ 『ある男』文庫(2021/9/1刊行) https://www.amazon.co.jp/dp/4167917475/ 『本心』(2021/5/26刊行) https://www.amazon.co.jp/dp/4163913734 『「カッコいい」とは何か』(2019/7/16刊行) https://www.amazon.co.jp/ebook/dp/B07V2MDQR5/ 『マチネの終わりに』文庫(2019/6/6刊行) https://www.amazon.co.jp/dp/4167912902 『本の読み方 スロー・リーディングの実践』文庫(2019/6/5刊行) https://www.amazon.co.jp/dp/4569768997 エッセイ・論考集『考える葦』(2018/9/29刊行) https://amzn.to/2QuH2Bg 平野啓一郎 タイアップ小説集 〔電子版限定〕 (2017/4/27刊行) https://www.amazon.co.jp/dp/B07252SYDJ ■ メールレター バックナンバー http://fcew36.asp.cuenote.jp/backnumber/hirano/mailletter/ 平野啓一郎公式サイト https://k-hirano.com/ 平野啓一郎公式Twitter(@hiranok) https://twitter.com/hiranok 作品公式Twitter(@matinee0409) https://twitter.com/matinee0409 英語版Twitter(@hiranok_en) https://twitter.com/hiranok_en Instagram https://www.instagram.com/hiranok/ LINE https://line.me/R/ti/p/%40hiranokeiichiro note https://note.mu/hiranok ■ メールレター配信停止をご希望の方は、下記メールアドレスに空メールをお送りください hiranomailletterresign@fcew36.asp.cuenote.jp その他、お問合せはこちらまでお送りください info+hirano@corkagency.com